青春シンコペーション


最終章 回転扉の向こう側……(2)


「あなた、警察に連れて行かれたんじゃありませんの?」
彩香が訊いた。
「はは。僕の家、お金持ちでしょ? 保釈金をたくさん払ったら、すぐに釈放してくれたんですよ。やっぱり物を言うのはお金ですね。そこいらの貧乏人にはそんなことできないでしょうけど……。何しろ、僕の伯父さんは……」
「黙れよ!」
強気な口調で井倉が言った。
「何だい? おまえは……。ああ。彩香さんの下僕か。それにしちゃ粗暴な口を利くじゃないか」
「おまえのような奴が総理の甥だなんて情けないね。君はその大好きな伯父さんの顔に泥を塗っているんだぞ」

「偉そうなこと言うなよ。荷物持ちの野良犬が……。ようやく彩香さんに拾ってもらって少しばかり餌を与えてもらったからってさ。僕は偉いんだ。それに、お金だってある。そうしたら何だって買える。何だってできる。どうだ? 羨ましいだろ? おまえなんかには想像もできないくらいのゴージャスな暮らしができるんだ。さあ、行きましょう、彩香さん。僕と来れば、その権力も財産もみんなあなたのものだ。最高でしょう?」
浮屋は得意そうだったが、彩香は軽蔑の眼差しを向けた。
「再びあなたの顔を見ようとは思いませんでしたわ。てっきりハンス先生の怒りを買ってライオンの餌にでもなったものと思いましたのに……」
毒を含んで彩香が言った。

「はは。何の冗談です? 僕はずっとあなたを花嫁に迎えようと準備をしていたのですよ。そうだな。ほら、そこの花屋の花をすべて買い占めてプレゼントしますよ。どうです? そんじょそこらの男には真似ができないでしょう?」
「まあ、随分素敵なことをおっしゃるのね」
その瞳や口調には侮蔑が込められていたが、浮屋はその意を汲めずに言った。
「わかっていただけましたか? それくらいの花の値段などたかがしれている。女というものは実に単純だ。そんな物で喜ぶのだから……。さあ、行きましょうか、彩香さん。僕と一緒の時にはもっとセレブな服を着ていてもらわないと……。そんなみすぼらしい格好では僕が恥ずかしくなりますからね。黄金とダイヤモンドで飾って……」
浮屋が彼女の手に触れた。
彼女は汚らわしいものでも見るように嫌悪し、払い退けた。が、浮屋はにたりと笑うと強引に抱きつこうとした。

「やめろ!」
井倉が叫んだ。
「汚らわしい手で彼女に触るな! 屑野郎!」
浮屋の腕を掴んで引き剥がす。
「何? 屑はそっちだろう? 金もない庶民のくせに……!」
「庶民だろうと何だろうと関係ない! 屑は屑さ」
井倉は真正面から浮屋を睨んだ。
「生意気な……! おまえのような奴、平伏させてやる! そうだ。平伏しろ! そして、僕のことは浮屋様と呼ぶんだ」
「様と呼べだって? ふざけるな!」
しかし、浮屋は平然と笑って彩香の手首を掴んだ。

「その手を放せ! 汚い手で彩香さんに触れるなんて、この俺が許さない!」
井倉はついに怒りを爆発させた。あとでどう思われようが構わなかった。今はただ、目の前にいるこの男が許せないと思った。
「許せないだって? なら、どうするつもりだい?」
浮屋は面白がって彩香の手首を持って引き寄せ、その胸に触れようとした。
「貴様!」
井倉は固く握った拳を、そいつの顔面に叩き込んだ。
「うわぁっ!」
浮屋は軽く飛ばされて、歩道の植え込みに尻から落ちた。

「な、何をするんだ! この僕にこんなことをしてただで済むと思っているのか?」
浮屋が喚く。
「彼女が欲しいなら、自分の力で偉くなってみろよ!」
見下すように井倉が言った。
「何だと? 僕の伯父さんは総理大臣で……」
「おまえじゃないさ」
井倉は冷静に続けた。
「総理をしているのはおまえの伯父さんであって、おまえ本人じゃない。財産だっておまえが稼いだ訳じゃないだろう?」
「僕のだよ! 浮屋家の財産はみんな僕が継ぐんだから……」
植え込みの上で手をばたつかせて何かをかき集めるように言った。

「そんなら、浮屋家はおまえの代でおしまいだ! おまえは史上最低の馬鹿息子でしかないんだからな」
「負け惜しみを言うな! 庶民のくせに! そうだ。おまえなんか何も持っていないくせに……! お金だって……」
頭上を飛ぶヘリコプターのローター音がやけに響いた。
「お金なんか働けば稼げるさ。僕はこの手で働いて、きっと彩香さんを幸せにして見せる! きっとこの手で……」
「馬鹿な……。彼女がおまえなんかに付いて行くものか! ただの庶民でしかない、金もないおまえになんか……」
浮屋が動く旅に植えられた植物の枝が折れ、緑の葉が散って行った。

「そう。今は何もないかもしれない。でも、彼には可能性があるわ」
突然、惨めな男の前に歩み出ると、彩香が言った。
「井倉にはまだ可能性がある。あなたにはないものを彼は持っているのよ。人間として既に終わってしまっているあなたなんかより百倍もましよ!」
彩香が言葉を投げつける。
「そんな……! パパに言いつけてやる! そうだよ。そんなことが許されてたまるか。親父に、なにとかしてもらう。それからCIAだ。奴らだって金を積めばどうにだってなる。そうしたら、おまえなんか僕を殴った罪で一生豚箱に放り込んでもらうからな」

「行きましょう」
蔑んだ目で男を見降ろすと、踵を返して彩香が言った。
「そうですね」
井倉もそれに同調した。あまりにも馬鹿馬鹿しくなったからだ。
「待てよ! 逃げるのか? 逃がさないぞ! この僕にこんな恥をかかせて……」
植え込みから立ち上がると、浮屋は彼らのあとを追った。そして、井倉に向かって拳を上げた。と、その時。その腕を背後から掴む者がいた。
「な……!」
振り向くと、そこにはジョン・マグナムとリンダ・コリンズが立っていた。男はまだ監視下にあったのだ。

「保釈中の身で暴力沙汰を起こすとは……呆れた人だ」
「保釈金は没収ね」
「そ、そんな……」
CIAの二人に両脇を拘束され、浮屋は大衆の面前で連行された。


夕暮れに染まるビル街を、井倉と彩香の二人はまっすぐ歩いていた。
(この手は放さない。今度こそ……)
彩香の手を固く握って井倉は思った。
「井倉……」
彩香がぽつりと呟いた。
「何だか少し疲れたわ。何処かで休まない?」
「そうですね」
二人はホテルのレストランへ向かった。


「井倉」
先を歩いていた彩香がエントランスの回転扉を通り抜けた時、突然、振り向いて言った。
「さっきはありがとう」
「いえ、その、僕は……」
丁度、扉に足を踏み入れようとしていた井倉はタイミングを逸して止まった。二人の間で、透明な扉がくるくると周り続けた。その硝子に車道を行く車の影が映り込み、沈黙の風が二人の想いを交互に映す。
「井倉……」

その時、エントランスの前で急停車した車のドアが開いた。そして、そこから降りて来た人物を見て彩香が顔を上げた。
「お父様……!」
「え?」
井倉が振り向く。それは確かに有住だった。
「井倉!」
彩香が向こう側から手を伸ばし、彼の手首を掴んで引っ張った。
「彩香さん!」
慌てて扉を抜けようとして躓き、その一枚にぶつかった。

「何やってるの? 急いで!」
「すみません」
彩香に引かれた勢いで前のめりに転びかけた。
「井倉……」
振り向いた彼女と正面から抱き合い、唇が触れた。
(彩香さん……)
一瞬、時が止まり、沈む太陽のオレンジが硝子の向こうで煌めいた。

「彩香……」
回転する扉の向こうで、有住が呆然とした表情で二人を見つめる。
「彩香さん……」
「このままでいて……」
彩香が目を伏せて井倉の胸に顔を押しつけた。
「で、でも……」
井倉の目に有住のたとえようもない怒りと悲嘆に暮れて行く表情が映る。
「お願い。このままでいて……」
彼女が囁く。

「彩香、おまえはこんな男と……」
彩香の父が扉を抜けて目の前に立った。
「お父様、彼はわたしを、あの汚らわしい野獣から救ってくれましたのよ」
「ああ。浮屋の倅のことなら知っている。本当に見下げ果てた屑だったよ、あの男は……だが……」
「あんな獣の花嫁になるくらいなら、彩香は命を絶った方がましです」
正面から父親を見据え、彼女は言った。
「彩香……」
絶句する有住。そして、井倉もまた言葉を失くした。

「彩香ちゃん……! そんなのいやだ! そんなことをしてはいけない! 僕は身をもって実感しました。僕の命はハンス先生に救ってもらった命です。だから、彩香ちゃんもそんなことをしてはいけない。いいや、僕がさせない! 僕はずっと子どもの頃から君のことを大切に思って、君の幸せだけを思って……だから……」
「結婚します」
彩香が言った。混乱する井倉を無視して彩香は父親に向かって宣言した。

「彼と結婚させてくれないなら死ぬわ」
「な……!」
男二人が同時に叫んだ。
「さ、彩香。馬鹿なことを言うんじゃない」
有住が狼狽しつつ言った。
「馬鹿な? お父様はわたしの人生なんてちっとも考えてくださらなかったじゃない! わたしはもう大人よ。自分の人生は自分で決めます。ピアノだって続けたいし、政略結婚なんて真っ平よ! そんなことになるくらいなら……」
彩香が身をひるがえして外へ飛び出そうとした。

「彩香ちゃん! 駄目だ! 逝かないで! その時は僕も一緒だ」
井倉が彼女を抱き締める。その頬には涙が止めどなく流れていた。
「井倉……」
「君だけに辛い思いなんてさせない」
二人は固く抱き合った。
「彩香……」
それを呆然と見詰めている有住とホテルの人々。

「……わかった。私が悪かった。おまえを無理に結婚させようなどとした私が……。だから、もう死ぬなんて言わないでくれ」
父親も涙を流した。
「では、わたし達のこと、認めてくださるのですね?」
娘が訊いた。
「ああ……だが、無職の男に娘をやる訳にはいかん。立派に一人前になるまでは……」
「わかりました。お約束します。うんと努力して、一人前になると……」
井倉は言った。その言葉に有住が頷く。途端に周囲から拍手が起きた。

「おめでとう!」
「頑張ってね」
ホテルマンやロビーにいた客達まで皆から声援を送られ、井倉の顔面は真っ赤になった。ついに願いが叶ったのだ。そして、有住からも認められた。
(本当に夢みたいだ……)
井倉の足は地に付いていなかった。その夜は何を食べたのかも、何処に泊まったのかも覚えていない有様だった。


次の日の朝。ハンスはがらんとしてしまったリビングに立って海を見ていた。
隣の白神の家から微かにラジオ体操の音楽が聞こえて来た。
「ハンス、朝食の用意ができたわよ」
美樹が声を掛ける。
「みんな、行っちゃったですね」
彼が振り向かずに言った。フリードリッヒはドイツへ帰り、黒木もまた自宅へ戻った。そして、井倉と彩香は駆け落ちして行った。残ったのはハンスと美樹、そして猫達だけだ。

「寂しくなっちゃったわね」
ハンスの隣に寄り添って美樹が言う。
「でも、ようやく二人きりになったです。誰に遠慮することもない。いちゃいちゃし放題です」
そう言うとハンスは笑って美樹を抱き締めた。それからそっと唇を寄せ、キスしようとした時、突然ドアチャイムが鳴り響いた。
「こんなに朝早くから、いったい誰なんだ?」

邪魔をされて、ハンスは不機嫌だった。が、玄関に出ると、そこには井倉が立っていた。驚くハンスに井倉は言った。
「先生、ただいま帰りました」
「井倉君、どうしたですか? 駆け落ちは……」
「はい。ちゃんと駆け落ちして、それから帰って来ました。僕達はまだ未熟なので、こちらで当分修行させていただきたいと思いまして……」
「それは構いませんけど……彩香さんは?」
ハンスが心配そうに訊いた。が、すぐに彼女もやって来て言った。
「井倉! 何やってるの? 荷物を一つ落としたわよ。荷物運びも満足にできないようじゃ、先が思いやられるわ!」
小さな包みを持った彩香が井倉を窘める。
「あ、はい。すみません。気をつけます」
「ほんとに愚図の上にドジなんだから呆れるわ!」

「彩香さん、昨夜、彼と何かあったの?」
美樹も心配して尋ねた。が、彼女は首を横に振った。
「いいえ。ただ、父と会いましたの。それでタイムリミットを課せられたんですの」
「タイムリミット?」
「ええ。もし、あと一年以内にピアニストとして芽が出なければ、結婚はさせられないと言われましたの」
「それって……」
美樹とハンスが顔を見合わせて微笑する。
「はい。だから、僕、ここに戻って来たんです。それが一番早い方法だと思いますので……。だから、先生、どうかよろしくお願いします!」
井倉が深々と頭を下げた。

「わかりました。ではこれまで以上に厳しく接することにします」
「え?」
「何しろ、デビューと結婚ですから……」
ハンスに言われて、井倉はその頬を薔薇いろに染めた。
そこへ、見慣れた車が滑り込んで来て止まった。
「あれ? 黒木さんまでどうしたですか?」
「いや、うっかりしてましてね。女房の奴、今日から当分ヨーロッパだったんですよ。しばらく向こうに滞在して研究するとかで……。一人でいるのも何ですし、また当分お邪魔します」
「はあ」
外では歩達がサッカーボールを蹴っている。今日から夏休みが始まったのだ。

「ああ、すみません。僕達、朝食まだなんです。一緒に食べてもいいですか?」
井倉が訊いた。
「ええ。もちろんです」
ハンスが頷く。彼らは我が家に堂々と上がって行った。
「ふふ。また当分、賑やかな季節になりそうね」
美樹が言った。
「そうですね」
ハンスもうれしそうに頷く。

リビングでは猫達がうれしそうに駆け回って、飲み物を運んで来た井倉はピッツァに飛び付かれて転びそうになり、ハンペルマンのようにゆらゆらと歩いていた。来週にはリサイタルを終えたフリードリッヒも帰って来るだろう。室内には明るい陽射しが射し込み、二台のピアノも輝いていた。ふと見ると、井倉が持っていたバッグのファスナーが開いて、数冊の楽譜が覗いていた。それを見て、ハンスは微笑し、ピアノの蓋を開けた。
「井倉君」
ハンスが呼んだ。
「何ですか? 先生」

「シンコペーションです」
「え?」
「今の気持ちをそのまま表現してください」
「今の気持ち……?」
「そう。これはレッスンです。うまく弾けなかったら、朝食は抜きです」
「えーっ?」
皆が笑っている。ハンスも笑った。そして、井倉自身も……。

「シンコペーションか……」
彼は椅子に座ると深呼吸した。そして、目を瞑った。ここに来てから3カ月。
(本当にいろいろなことがあった。でも、これからなんだ。僕と彩香さんにとっての未来は……。幸せは今、僕の手の中にある)
そうして、井倉は夢見るように、最初の一音を弾き始めた。その透き通るような旋律を……その青春の1ページを未来に向けて……。


Fin. Thanks for reading.